ダルタニャン 「砂丘の戦い」1658年

カメラメーカー: RICOH
カメラモデル: GR DIGITAL 3
焦点距離: 6mm
絞り値: f/3.2
露出時間: 0.0012 秒 (1/850)
ISO 感度: 64
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 4.0 (Windows)
1658年6月14日早朝5時、テュレンヌ旗下のフランス軍は行動を開始した。しかし、ドンファンのスペイン軍は朝5時は戦闘開始時間ではないと無視した。
このスペイン軍には、フロンドの乱で亡命したコンデ大公軍とジェームズ2世(ステュアート朝)の王党派亡命軍が加わっていた。
ものの本にはコンデ公が
「30分以内に戦いに負けるところが見られるぞ」とグロスター公ヘンリーに言ったという話しがある。
このスペイン軍はこのダンケルク包囲の援軍を送るにあたり、行軍に支障をきたした砲兵隊を残して進撃してくるほどのいい加減さであった。
スペイン軍は、海と運河に挟まれた小高い砂丘の上に陣取った。
フランス軍の攻撃は、8時に開始された。
それは小高い砂丘に対しての 海岸寄りの砂浜から。ここにイギリス海軍の艦砲で援護されたフランス軍、イギリス軍歩兵が突撃。
この攻撃で、騎兵を率いたジェームズ軍は突撃を繰り返したが敗走するばかりであった。
仕方なくスペイン連合軍は予備部隊も投入するも、今度は戦線の反対の運河側からテュレンヌの砲兵隊が威力を発揮した。
この挟み撃ちによってスペイン軍は崩壊し、約4時間で戦闘は終わってしまった。
この戦闘での損害は甚大で、イギリス王党派のジェームズ軍は、二個連隊全滅、近衛連隊降伏(投降)という惨憺たるもの。
ここでジェームズやグロスター公ヘンリーは戦闘の混乱にかろうじて逃れたのがせきのやまだった。
ここでフランドル地方を転戦していたダルタニャンは、歩兵部隊を指揮(ルテナント・士官)しておりこのダンケルク包囲戦にも参加した。
ダンケルクは、「砂丘の戦い」のあと10日で陥落し、ダンケルクは英国との協定通りイングランドに引き渡された。
この時に、ダルタニャンは近衛銃士隊隊長代理候補になった。(但し、官職は購入する規定)
この時の近衛銃士隊隊長代理は、マザランの甥、銃士隊隊長は国王。
マザランの甥の近衛銃士隊隊長代理(プレ・キャプテン・ルテナント)は戦闘に参加しないので、事実上ダルタニャンが精鋭部隊の近衛銃士隊を率いたことになる。
この後テュレンヌ旗下のフランス軍は、フュルヌ、ディクスモイデ、内陸部のイーペル、アデナールデなどを攻略。
ここでテュレンヌ旗下のフランス軍に進撃停止命令が出た。
それは、摂政アンヌ・ドートリッシュがルイ14世が回復した機会にと対スペイン和平を望んだと言うことである。
それは1658年6月14日ダンケルクを攻め落とした前後のことで、カレーにいたルイ14世が熱病にかかって瀕死の状態になった。
そして、6月29日には危篤状態になる。
それが物の本には「アンチモンを秘蔵のワインに混ぜたもの」を飲ませたら回復したというから良く分からない。
そして、元気になると看病していたマリー・マンシーニと共にパリへ帰ってしまったという。
ここでマリー・マンシーニとは、マザランの姪のマンシーニ三姉妹の1人である。
このマンシーニ姉妹とルイ14世との係わり合いは深く、先ず1654年オーランプ・マンシーニをクリスマスの女王に指定したことから関係が明らかになった。
ここでオーランプ・マンシーニが王妃になるかもしれないと言う噂が流布され、アンヌ・ドートリッシュが激怒した。(モットヴィル夫人 伝)
この結果としてオーランプ・マンシーニは、即座に結婚させられソワッソン伯爵夫人として宮廷に残る事になった。(後に 宮廷の女官長)
イギリスでは、1658年9月3日にイギリス・護国卿オリバー・クロムウェルが病没し大転換になる。
そして、ダルタニャン物語 第3部 「ブラジュロンヌ子爵」に続くのである。
尚、この熱病にかかったルイ14世の話として、鉄仮面の話やルイ14世が入れ替わったという小説などがある。
とかくルイ14世に関しては出生から種々の疑惑があり、大革命の時にブルボン王朝外の王族の墓(バロアその他)が徹底的に破壊し尽くされたために今では検証しようがない。
ダルタニャン近衛銃士隊隊長代理候補になる「砂丘の戦い」1658年

D'Artagnan物語・三銃士は、2006年まで書き連ね
D'Artagnan物語・三銃士I
http://www17.plala.or.jp/syuun/page236.html
D'Artagnan物語・三銃士II
http://www17.plala.or.jp/syuun/page251.html
で一端終わっている。
その後又3年経って、2009年に継続したものの又放置して2012年に今になっての再開。
http://pub.ne.jp/Indianinkworld/?navi_id=33854
そこでは、
第1部 「三銃士」の今までのあらすじ
第2部 「二十年後」の背景とあらすじ
で--ダルタニャン近衛銃士隊隊長代理候補になる「砂丘の戦い」1658年を経て
第3部 「ブラジュロンヌ子爵」の解説にする予定であった。
こんなふうに6年間も放置しておいたら最近ではダルタニャンものとか、この当時のフランスの歴史というのが多く書かれているのには驚いた。
以前は、シュヴルーズ公爵夫人というのは小生の記事しかなかったと記憶する。
ここで3年空いてしまったというのは、実のところダルタニャンは単なる軍人であってフランス史の中では埋没している。
この小説の第二部と三部の間には、フランスとスペイン、イギリスとの絡みそして、ルイ14世そのものの問題点が山積している。
それで実のところまだ「ぐうたら」であったルイ14世は、摂政アンヌ・ドートリッシュの侍女達などとうつつをぬかし、その一方で厭きると戦争に出かけるという後年の姿が垣間見えることになる。
そして、そういう宮中では女性がらみ、その後には正式に公式愛人を囲うことになるルイ14世の話しという女性関係を書かないと第3部に繋がらない。
なんと言っても第3部「ブラジュロンヌ子爵」はルイ14世の公式愛人が絡む政争だからである。
そしてD'Artagnan物語での主役はルイ14世に移り近衛銃士隊隊長ダルタニャンは、史実上では1664年にニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet・ベル島侯爵、ムラン子爵、ヴォー子爵)を逮捕している。
尚、時系列によるとフーケは1650年にパリ高等法院の検事総長職を購入している。
1655年3月には、新税と官職売り出しの発布がなされ、ルイ14世はなんと侍女達との乱交で性病をうつされるという事件がある。
この宮廷の侍女達の中から、後にルイ14世の公式愛人が選ばれることになるから元々は全て貴族出身のお嬢様の筈なのだが色恋沙汰に関しては節操がない。
こう言う問題から貴族達が大革命でやり玉に挙げられ、ギロチンにかけられる原因を作っているというのは後世の歴史家の話。
従って、この前のことでルイ14世の出鱈目ぶりというは、宮廷内の侍女を夜の相手にしてお気に入りの侍女のところには石工(石造りなので)を呼んで通路を作ってしまったりする。
ここで宮廷内の侍女の監督官のナヴァーュ夫人は、その通路や抜け道を見つけると直ぐに塞ぐことをしていた。
それを知ったルイ14世は、自らの恋沙汰にたいして邪魔をする人物に我慢できないらしくその事実を知ると即刻ナヴァーュ夫人を解雇して、パリから追放した。
このことは、後のニコラ・フーケ事件と係わり合いがあると思われるので特に留意する必要がある。
その一方でクロンウェル(オリバー・クロムウェル・英国護国卿)は、10月24日ウエストミンスターでフランスと通商条約を結び、26日にスペインに対して宣戦布告をした。
1657年3月23日マゼランはパリでクロンウェル政権と一年間の同盟条約に調印した。
(フランス・イギリスと反スペイン同盟)
4月には、あの「美人の中の美人」とオッカンクール元帥に言わしめたモンバゾン公爵夫人が紫斑病にかかって急死している。
私見で言えば、このモンバゾン公爵夫人の外見イメージがD'Artagnan物語・三銃士の悪女・絶世の美女ミレディなのではないかと考えている。
もとよりルイ16世時代の王妃マリー・アントワネットの首飾り事件(The Affair of the Necklace)とその首謀者ラ・モット伯爵夫人(ジャンヌ・ド・ヴァロア)をミレディの題材にしていることは確かである。
(王妃の首飾り上・下・アレクサンドル・デュマ著/ 大久保和郎訳 東京創元社 創元推理文庫シリーズ )--このミレディ考察は後で。
そうしてこの「砂丘の戦い」の直前、ルイ14世はラ・モット・ダルジャンクールという超ナイスボディの貴族の美女を探し出して夜の相手にした。
それを咎めたのがマザランで、ラ・モット嬢は、リシュリュー(枢機卿)の愛人だったと暴露して忠告した。それで面白くなかったために、ルイ14世が親征をすると言って出かけたのが「砂丘の戦い」になる。
ダンケルクの包囲
フランス、イギリス両軍はダンケルクを包囲した。
この時ネーデルランド総督ドンファンはカンブレー防衛を念頭に置いて、予想されたダンケルクの防備を疎かにした。
5月末には、名将テュレンヌ子爵を副将としたルイ14世親征のフランス軍がダンケルク(スペイン軍3000)を前に布陣していた。(ルイ14世はカレーに在住)
海上からは、モンタギュー提督(後のサンドウィッチ伯爵)の率いるイングランド艦隊が港を包囲した。(英仏連合軍21,000)
ここにドンファンの救援部隊が派遣され、フランス軍の包囲線の直ぐ外側の「砂丘地帯」に野営地を設けた。
6月14日の「砂丘の戦い」
以下続く
Core i7-3770Kの「殻割り」で分かる廃熱のボトルネック
デスクトップ版Core i7-3770Kが発売されてから、Core i7-3770Kの「殻割り」の動画が何種類も公開されている。
これは「デスクトップ版Ivy BridgeのCPUパッケージ」からヒートスプレッダを剥がした動画である。
従来ならヒートスプレッダの内側のTIM(Thermal Interface Material)が「熱伝導率の高いはんだでソルダリング(註syuun Fluxless solderer・熱伝導率は80W/mK・Intelの特許)」していたものがグリスに置き換えられたということ。
http://youtu.be/yCW508yl_Eg
この動画には、最近は「殻割り」するだけでなくグリスを塗り替えたという動画さえ出でいる。
そしてそのテストは、5月11日の「PC Watch」記事で、デスクトップ版Core i7-3770Kを「殻割り」をして「熱伝導率の低いグリス(註syuun TIMペースト(熱伝導グリス)熱伝導率5W/mK程度)」を塗り替えたという実験結果を発表している。
この記事を見ると驚くべきもので、「グリスを塗り替えて測定した温度の差」と言うものは、
1「OCZ Freeze Extreme」(グリスと同等以上の性能を発揮する高性能シリコングリス)
2「LIQUID PRO+CS」Cool Laboratory 液体金属 注射器入り 熱伝導率:82.0W/m・k ドイツ製
記事では
「標準状態のCore i7-3770Kが3.5GHz動作時に61℃に達していたのに対し、
OCZ Freeze Extreme塗布時は53℃、
Liquid Pro塗布時には50℃まで低下した。
オーバークロックにより発熱が上昇した4.6GHz動作時には、この差はさらに広がり、標準状態の84℃に対して
OCZ Freeze Extreme塗布時は69℃、
Liquid Pro塗布時には64℃と、15~20℃もの温度差が生じた。」
この記事の最後には「ソルダリング版Ivy Bridgeの登場に期待したい」と書かれている。
しかし、
「Intelが製造工程を見直してまで、敢えてコストの高いソルダリング版をリリースする可能性は低いだろう。」とあって、場合によっては「デスクトップ版Ivy BridgeのCPU」はパスなのかも知れないと言う気がする。
そして、少なくとも現状であれば元々熱伝導率が悪いので高価なCPUクーラーは不必要ではないかと言う感じがする。
これで場合によっては、自作パソコンの選定を大きく左右するかも知れない。
要するに、Core i7 2700Kでパソコンを組むと言うことである。
「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦の秘密を探る
1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦4
忍城の南、持田口に位置する小宮家の謎

●小宮家の初代は小宮忠昌(源左衛門)と小宮家に伝わる家系図にある。
ここで寛文12年壬子9月3日卒というメモをもらったのだが、寛文12年とは1672年でこれではあまりにも長生き過ぎる。忠昌の妻は慶安2年(1649)の卒と記されているので、寛文ではなく寛永の間違いではないかと思っている。
その一方で二代目の義明(勘右衛門)が寛永元年(1624)卒で、こちらが寛文の間違いでこの二つを入れ替えると整合性がとれる。
そこで初代は小宮忠昌(源左衛門)の卒を寛永12年(1635年)として考える。
いずれにせよ小宮忠昌(源左衛門)、元の名、小宮山忠昌(源左衛門)は家系図から忍城城主成田氏長を主君とする成田氏の家中の人物であることが分かる。
●この小宮山忠昌の父親は誰かというと家系図から小宮山忠孝(弾正介)である。
この小宮山忠孝(弾正介)とは、行田市史・上巻・成田家分限帳にあるとおり、武州足利郡戸塚の戸塚城(小宮山城ともいう・川口市東戸塚)主である。
この小宮山忠孝(弾正介)は元和元年丁巳8月8日卒(法号・宝持院金峯道剛大弾門)と言うことで大阪夏の陣以後に亡くなっている。
この小宮山忠孝(弾正介)は、武州足利郡箕田郷に居住し、忍城主成田氏の旗下として200貫の知行(石高500石)として足立郡戸塚を領地としたとある。
●この小宮山氏によって築城された戸塚城は、小田原城攻めのときは全て忍城へ引き上げ空城になっていたという。
そうであるとすると、小宮山忠孝(弾正介)は旗本として城主成田氏長について行かない限り忍城攻防戦に参加したはずである。
現実問題として、戸塚城の守備隊が豊臣軍との開戦前に城主成田氏長について小田原城籠城戦に参加する可能性は無い。

●そして小宮山忠孝(弾正介)は、戸塚城を築造するにあたりかなりの軍勢を持っていたはずであり、持っていなければ城を築ける分けは無い。
又、なぜ武州へ来たのかと言えば、この小宮山忠孝(弾正介)の父親は、小宮山友晴(内膳正)であるからである。
小宮山友晴(内膳正)は、武田勝頼の「使番十二人衆の一人」の侍大将で武田一門である。
即ち、天正10年に甲州天目山へ永蟄居の身ながら単騎で武田勝頼にはせ参じ、討ち死にした事が知られている。
その際に、内膳正以外の一門をいち早く甲州街道から(織田の勢力範囲以外の)関東へ落ち延びさせ、元々厚誼のあった成田氏を頼ったと言うことである。
この小宮山氏というのは後の武田武士狩りを思えばかなり慧眼であったと言わざる終えない。
武田氏が滅んだあとに甲州では武田系の武士や一門の武田狩りが厳しく行われて根絶やしにされたというのは有名な話。
事実元々新田源氏の系譜のSyuunの一族も、蜘蛛の子を散らすように遠い昔に甲州街道を通って、織田の勢力範囲から逃れ今の埼玉県の山側に避難したことが名字の分布から分かる。
北へ逃げた方は、善光寺あたりで止まった人と富山まで逃げた人というのも同じく氏名分布から分かる。(既に書いたことがある。)
従って、元の甲州に代々住んでいると称する武田一門、武田武士というのは事実上あり得ないと言うのが真相である。
根絶やしにされた武田武士の文物を受け継いだとか、ということが真相であろう。
●「忍城の南、持田口に位置する小宮家の謎」
この小宮家が位置するのは、行田市の「忍城今昔地図」にも載っていない忍城の城外である。正確には忍城のほぼ南に位置し「忍城今昔地図」に丁度書かれていない部分に当たる。
そして、それは持田口の外あたりである。
この小宮家から戦後まもなくまで関東一円を見渡すことが出来たというし、外へ通じる道は小宮家の前しかなかったらしい。
記憶を辿れば、その道幅は東京オリンピック以前までは小型タクシーがやっと通れるような道幅しかなかった。
●この小宮家の母屋が作られる前には敷石から城郭があったらしいと言うことを書いた。
ここでもし、この小宮家が忍城を守るための出城としての役目をしていたら忍城の持田口というのは非常に強固な防衛戦を敷いていたことになる。
石田三成は、持田口を封鎖しないで三方を囲んだ。
この意味は、持田口の防備が特に堅いとみたのではないかと考えられなくもない。
そうであるから、真田軍の突撃隊が攻めてきても跳ね返されたと言うのが真実ではないか。
そしてそういうことが良く分かっていた石田三成というのは、決して城攻めが下手な武将ではないと考えられるものである。
つづく






櫻井よしこ 群馬経済同友会 講演会を聞いての一言
http://pub.ne.jp/Indianinkworld/?entry_id=4191837
こういう部分を旧保守派の米国依存志向と言うことを言われていた。
「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦の実行指揮者を探る
1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦3

カメラモデル: RICOH GX200
焦点距離: 8.3mm
絞り値: f/3.1
露出時間: 0.010 秒 (1/100)
ISO 感度: 64
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: 絞り優先 (セミオート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 4.0 (Windows)
●武州の忍城(埼玉県行田市)は、城主成田氏長が小田原城攻防戦に小田原城に籠城中で留守であった。
そんな中、ボンクラの役立たずであった成田長親が、忍城城代を努め攻防戦の中心となっているとされていた。
その攻防戦には石田三成を総大将とし、大谷吉継、長束正家の軍勢を加えて約20,000の軍勢で押し寄せ、水攻めで落城しなかった。
そこへ悲惨な結末に終わった八王子城の落城のあと、この攻防戦に参加していた真田軍が投入された。そこで約50,000の大軍で力攻めにする。
特に強力な真田軍は、石田三成がわざと無防備にして置いた持田口に「逃げ口は不必要」と攻撃を仕掛け、この戦闘では互いに大損害を出すも真田軍は撃退される。
本来貧弱な防備と強力な軍団がいないはずの忍城には、強力で機動性を持った実戦部隊が存在して誰がその総指揮を執ったのかは歴史資料の上では不明のままになっている。
この行田市は今では新しい真っ直ぐな道が出来てあまり迷うことはないのだが、今から50年近く前では、中々思ったところに行く事が出来なかった記憶がある。
それは、秩父鉄道の行田駅から持田方面へ行こうとすると必ず水城公園に出でしまう。
又、持田方面から行田駅(秩父鉄道)へ行こうとするとこれも又水城公園にでると言う有様だった。
●この故意に総指揮官の名前が消され、歴史上にも出てこないというのはかなり意図的であると言うのは瞑々白日である。
そこでこの忍城周辺を調べてみれば非常に妙な建物を見つけることが出来る。
それは、大きな長屋門である。
30年前までは国道17号の熊谷パイパスから見ることも出来たのだが、今は町並みの中で全く見えない。
この長屋門の前には、以前巾4m近くあった深い堀が廻っていた。今ではその堀は埋められて、川は公有水面(公有地)であるからと道になってしまっている。
そして長屋門の前の堀には跳ね橋があり、修理のために跳ね橋が上がっていたこともあった。(その内に石の橋になった。)

その家とは、小宮家である。
その小宮家に関する著書があって、昭和18年頃の小宮家全景が見て取れる。
そしてこの小宮家の土地というのは、農地解放までは吹上駅まで他人の土地を通らずに行けたと言うほどの広大なものであった。
又、昔入手した銅版画に明治時代の小宮家の見取り図が書かれていてある程度のものが判る。この小宮家の見取り図には、不思議と描かれていないものも沢山あって多少追記をしたものの書き切れていない。
この小宮家の見取り図を見るとどう考えても普通の農家とも思われないところが多い。
その第一は、全て自給自足出来る様になっている。
魚は、屋敷の前の堀やその堀から取り込んだ内部の生け簀。そして畑。
裏山には竹藪があって春にはタケノコが取れるのだが、一旦入り込むと出で来られないという迷路になっていて一回迷ったことがあった。
そして、渡し船くらいの大型の船は長屋門に、小型の船は長屋門と米倉、裏屋など全部で5-6艘もあった。
母屋は40年くらい前に取り壊されて新しくなった。そこで出て来たのがなんと城の敷石だった。
端的に言えば、昔の城郭だったところに母屋が建てられたことになる。
こんなふうに見ると、この小宮家の家の作りや沿革というのがどうも怪しい。

●この小宮家の菩提寺というのは、「真言宗 智山派 医王山 遍照院」という寛仁年間(1020年)の草創といわれる。
遍照院で調べると、
「慶長9年(1604年)徳川家康により薬師堂領として25石の御朱印を賜り、重層唐破風総ケヤキ造り7間四面の重圧な本堂は、本尊薬師如来座像を祀ることから薬師堂と呼ばれ寛政5年(1793年)に再建されたもの。」
という風に書かれており、これもどうも怪しい。
この遍照院の隣の「臨済宗 妙心寺派 鷲峰山 大蔵寺」は、「文政6年(1823年)子孫の松平忠堯(タダタカ)は忍(行田)に移封された際、駒形の遍照院の南隅に寺を移し、現在に至る。」
成田氏は水上公園北の「曹洞宗 平田山 清善寺」
この遍照院に実のところ小宮家の草創からの墓がある。
その墓地は2区画あって初代は小宮忠昌(源左衛門)であり、寛文12年壬子9月3日卒とある。
この小宮氏の姓は関東における小宮姓の元だと言われている。こんなことも非常に妙なことで次回種々の謎について推論してみたい。
1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦 2
小説「水の城」を読むと時代考証的におかしなところがいくつも出てくる。それは、分かり易く現代解釈をするということなのかも知れないが解ない部分が多い。
●先ず、「次の村長は、自然に清右衛門ということでみなが了解しているのだ。」という部分。
場所的に村長(むらおさ)という制度がないところに村長というのもおかしなものだし、後の江戸時代でも「村長」は存在しない。又、元々「清右衛門」という名前の百姓なども存在しない。
なぜなら例えばこの「清右衛門」とは、元々門構えの家を持つ人物が名乗る。
その門構えとは、今のうさぎ小屋の人が通れる門構えではない。鴨居と屋根が付いた門である。しかもその門を通るのは騎馬でそのまま通れるほどの門である。
簡単に言えば上士、それも馬に乗れるくらいの武士階級に許された名前である。江戸時代には、改易で浪人する武士も多かったからその辺に掃いて捨てるほど◯右衛門という人はいたかも知れない。しかし、安土桃山末期ではあまり考えられない事である。
●次ぎに城主成田氏政が「手勢三百五十騎とほぼ同数の足軽を率いて出陣する日であった。」という記述。
この時代に三百五十騎と言えば、単純に実兵力約1,500以上、総数では2,000以上の軍団を意味する。なぜなら、騎乗の武士には最低左右に徒の武士・足軽が付き同じく後ろにも1人又は2人の徒の武士が付く。
これは単純に見て、馬がやられれば騎乗の武士は簡単に落馬して討ち取られるからである。
そのほかに、直接の戦闘部隊でない武器や食料を運ぶ人たちその他が同行する。
実際の城主成田氏政の手勢というのは500と言われていて、この小説「水の城」でも500という表現がある。
これから見れば小説の十分の一、精々三十~四十騎程度であるはずである。
そしてこの手勢500というのは実のところ成田氏程度の城主としては、常時動員出来る最大限の兵力、事実上の旗本全軍であろうと思われる。
豊臣政権下とは違って、兵農分離していない地方のこの頃としては、事実上の全軍は農閑期でしか出すことが出来ない。
たとえば川中島の合戦、関ヶ原の戦い、大坂冬の陣も10月、長篠の戦いは今の歴では7月、大坂夏の陣は3月ということからしても大量動員をする時期というのが大方決まっている。
こんな風に見ると小説「水の城」というのはかなり突っ込みどころがある。
●その上前橋城と厩橋城を別の城としているところなどはどうしたものかである。実際は前橋城というものはなく「厩橋城」と呼んでいた。
その他、この辺の百姓の表現として「○○べ」とか「‥‥本当だべか」という「べえ、べえ」言葉を用いている。
しかし、この地域は元々江戸弁の元になった地域に近く「べえ」言葉は使わない。ここで「○○べ(伸ばさない)」は、前橋市だけの方言である。(最近は使わない人が多い)
実のところ、もう少し北の羽生くらいになると昔はかなり言葉が違った。
●以上のことから忍城攻防戦には、忍城城下の事実上の実践部隊全軍が参加したことが分かる。(小説でもそういうことになっている)
そしてその全軍とは武士が農民もしていた、兵農分離していないこの時期には、その軍団の長は農業を指導して成田氏の経済を支えていたはずである。
その軍団の長が事実上の「村長」であり、そのままの軍を構成していたと思われる。
●多少蛇足になるが、忍城攻防戦などのような湖沼地帯での戦いは激戦になる例が多い。たとえば後年の1667年のフランス・ルイ14世下のネーデルラント継承戦争。その後のオランダ戦争でもテュレンヌ子爵(元帥)というフランス史上名将の一人と言われた将軍でも苦戦を強いられている。
1914年の第一次大戦では、イーペルの戦い(第一次)という塹壕戦では「フランス軍は1914年、半年にも満たない期間に約120万人の戦傷・行方不明者と約50万人の戦死者を出した。」と言われている。
翌年の第二次イーペル戦では、湖沼地帯で戦車投入も制限されイギリス軍が大損害を被り、---このときに日本に増援部隊を要請したと思われる。
実際は、イギリス連邦軍(カナダ軍を中心とした)は50万人の犠牲者を出した。
このイーペル戦などによって、第一次大戦後の戦争観が違ったとも言われている。
第二次大戦では、1944年9月のマーケット・ガーデン作戦。映画「遠すぎた橋」A Bridge Too Far 1977年で描かれているとおり、失敗した作戦として有名である。
小説「のぼうの城」、「水の城」の舞台・忍城攻防戦の謎の人物の真実
●小説「のぼうの城」、「水の城」は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに端を発し、関東の北条方の城を豊臣方が攻略するという舞台での出来事である。

その中の武州の忍城(埼玉県行田市)は、城主成田氏長。この成田氏長は約500の手勢を連れて小田原城攻防戦に参加して小田原城に籠城中で留守にしている。
時の情勢は、既に太閤秀吉に帰して関東の北条方の城は瞬く間に落ち、残るは小田原城と忍城と言うことになった。
この忍城は、豊臣秀吉が石田三成に北関東の上州・館林城、武州・忍城を攻略するように命じられた。
この中で石田三成は、大谷吉継、長束正家の軍勢を加えて約20,000の軍勢で上州・館林城(軍勢約5,000)を2日で落城。
残すは武州・忍城という小さな城を落とすだけになった攻防戦である。
この忍城というのは、周囲を沼などの湖沼で取り囲まれた「浮き城」の異名を持つ難攻不落の名城である。
ここで石田三成は、忍城の籠城戦にたいして「水攻め」を行うように指示されてその水攻めを実行する。
この攻防戦で城主成田氏長とその旗本の主力部隊は小田原へ出かけて不在、忍城城代の成田長親はボンクラで役立たずというのが「のぼうの城」の「のぼう」‥でくのぼうの城である。
ところが実際の忍城攻防戦では、少人数の戦闘部隊しかいないはずの忍城に農民軍が入り約2,600の戦闘部隊を結成し統制の取れた強力な戦闘を繰り返す。
水攻めは、この忍城守備隊によって破られ湖沼地帯の戦闘では大部隊の展開ができない。
最後には、八王子城攻防戦に参加していた真田軍が投入され、約50,000の大軍で力攻めにする。それでも忍城は落ちず、強力な真田軍の持田口の戦闘では互いに大損害を出すも攻撃軍は攻めきれない。
こう言う状況で忍城よりも先に小田原城が落ちてしまうと言う事態になった。
その小田原城落城によって忍城が開城して攻防戦が終わる。
●この二つの小説もそうだが、忍城攻防戦に関しての郷土史にもなぜ忍城に強力な守備隊が存在したのか?
そして、「水の城」でも石田三成の言葉として書かれている様に
「あの城には誰がおるのだ。城兵たちが頼りにし、その人の顔を見るだけで心強くなる男は誰なのだ。‥‥」
小説「水の城」では、短期間に農民を訓練して実戦部隊にしたと言うことにしている。しかし、ほんの僅かな期間に、常備軍である豊臣軍のプロ軍団に対抗しうる農民軍を作ることは不可能である。
何と言っても、弓矢、鉄砲、槍その他が使えなくてはならないし、集団行動を行うのにはやはり実戦経験を積んだプロ集団の農民軍である必要がある。
そして、その農民軍には有力な指導者と参謀、実戦指揮官がいる。
ところが、小説で出てくる様に成田一族は実戦ではほとんど無能。そして当然留守部隊の重臣にもそんな力がない。
●要するに歴史から意図的に消された人物がいると言うことである。
実のところ、その人物というのはこの忍城の持田口と小説「水の城」に出てくる吹上(JR吹上駅がある)の清右衛門という百姓と偶然に重なる部分がある。
小説では、清右衛門は百姓を訓練して短期間に実戦部隊にして、その侍大将となって一軍を指揮する。そして、持田口での真田軍との戦いで戦死することになっている。
しかし、実際の指導者が戦死したら忍城は総崩れになって即刻開城になったはず。
ところが、その意図的に名前を消された人物は当然戦死もしていない。
その後の、関ヶ原、大阪冬の陣、夏の陣にも参戦している。
その人物は誰かというのは、今の行田市の古民家を調べその菩提寺の墓の戒名を見てみれば明らかだというのに誰も言いだしていない。
その理由というのも次回検討することにして、その重要人物の家の見取り図(明治時代)や古民家の写真などを偶然?持っていたので次回公開してあきらかにしたい。
●尚、この「のぼうの城」は映画化されてるが当然謎の人物は出ていない。
「日本の復活」講演会・田母神俊雄・水島総・三橋貴明

【頑張れ日本!全国行動委員会 群馬県支部設立記念講演会】
前橋市文化会館に行っていたらこんな講演会がありました。
チケット1000円
こんな講演会を前橋でもするとは驚きました。
早速チケットを買って置いたので、その後講演感想でも‥
バブル経済ハードランディングの失敗と新聞報道の欺瞞
2012年4月19日の新聞全紙に、日銀元総裁の三重野氏の死去の記事が載った。この三重野氏の顔や名前を思い出したいという人物がいるとしたら、余程バブル崩壊で良い思いをした人物に違いない。
現日銀の白川総裁は「この上のない損失」といういつもながらの社交辞令を公表している。こういう書き方というのはある意味、文例集があって事務方のその文例集に基づいて公表したと言うものである。
この三重野元総裁というのは、実のところバブル崩壊後その経済の深刻さが分からず長期デフレを招いたと言うことで、実のところ「石もて追われた」人物である。
当時言われたのは、この三重野元総裁というのは満員電車に乗ったこともなく、市中で食料品なども買ったことがない人物として揶揄されていた。

バブル(1989年頃)潰して有名になって「平成の鬼平」の異名を取った三重野康総裁(1989年12月17日 - 1994年12月16日)は、満員電車で通勤したこともなく、スーパーで買い物をしたこともない人物だった。(「平成の鬼平三重野康日銀総裁は日本経済を滅ぼしたのか」、「世界デフレは三度来る」竹森俊平・講談社・2006年4月)
要するに机上の数字だけを見て、庶民感覚も国民経済も全く分からない人物と言うことである。
以前のエントリーではこんなことを書いていた。
マイナス成長の中で高給を食む「通貨の番人」達
http://pub.ne.jp/Indianinkworld/?entry_id=1590797
「かって、日銀マンを評して大蔵官僚は『御殿女中』と揶揄していた。
それは、常に浮世離れして、日銀の中でしか通用しない訳の分からない数値を並べ立てて、まくし立てるからだ。事実、過日日銀の講演を聴いたことがあった。
その時、株価の図の様な為替変動の図などを示しながら、現状分析も将来の目算もない単なる数字遊びに堕していたことは記憶に未だに新しいものがある。」
この日銀の講演会を聞いたのはバブル崩壊後の不景気の時であった。そこでどうしたら景気が良くなるのかという意味合いで日銀マンを呼んで見たはず。しかし、その目算は全く外れ単なる数字の羅列だけで無く、その後の経済見通しさえ全く分からない有様だった。
「「『信念の人』だった。最後の利上げをしたとき、『もう1回上げたら、橋本さん(当時の橋本龍太郎蔵相)に叱られるなあ』と漏らしていたが、バブルを退治しなければならないと堅く信じていた」。日銀OBで、国際会議の担当職員として三重野総裁と接したクレディ・スイス証券の白川浩道チーフエコノミスト(51)は、こう振り返る。」 (産経新聞Web)
政治も金融も結果論である。この三重野元総裁というのは実際の景気判断が出来ずバブル潰しのキズを大きくしたと言われている。
それは確かにそうだが、この三重野総裁より不動産融資規制の「総量規制」を行った橋本元蔵相のほうが責任が重いだろう。
なぜなら、利上げや利下げとは関係なく金融機関は否応もなく不動産に融資をしなかったのであるから実のところは責任転嫁を日銀にしている。
バブル経済のハードランディングは今や禁句どころか、してはいけないと言うことは通説になっている。
従って、その後の米国や中国バブルではバブルのソフトランディングに躍起になったというのは見ての通り。
このバブルの時に「バブル経済のハードランディング」を強く主張したのは、左翼系の朝日、毎日だけでなく全紙がそうであった。
それでこのバブルで困ったとか、良くなかったという人の意見というのはあまり聞かない。
ハードランディングを強く主張した新聞、テレビも過大な広告費が入って大もうけしたはずだ。
ところが儲からなかったところがある。
それは、政府官僚と東大などの御用学者、受信料で運営するNHK。
そして、気にくわなかったのは資本を買われた米国。(バブル崩壊で実は大儲けした。)
考えてみれば今のTPP参加賛成とか、消費税増税推進とかと言うのも今新聞全紙が主張している。
こういう事を奇妙に思わないと思うのならやはりニュースを見る目がないと思わなくてはならない。
だから、「バブル経済のハードランディング」を主導したのは実は官僚だったと言うことである。しかも日本という国を揺るがす大事件だったのに「総量規制」という銀行局長の「通達」だったという問題点につきる。
しかも、当時の銀行局長は勇退後(天下り)バブルの結果が明らかになっても最後まで「総量規制」は正しかったと譲らなかった。
日経新聞は、このバブル経済のハードランディングを主張し、「総量規制」の維持に腐心していた。しかし、バブル崩壊の政策が経済の失敗と分かると一斉に白を切るどころか加藤寛氏の様にハードランディングは間違っていると言った
過去のエントリーにはこんなものがあった。
社会主義国に回帰しようとする日本経済の惨状 その1
http://pub.ne.jp/Indianinkworld/?entry_id=1740326
「2008年10月26日付読売新聞朝刊13S一面に「市場大混乱・どう立ち向かう」(中)では、あの「加藤寛」氏がインタビューに応じている。
題して「内需主導で活路を探れ」内容は、http://blog.goo.ne.jp/ohmaelive/m/200810‥‥大前健一氏「ニュースのポイント」というWebサイトで主張する大前健一氏の意見と、瓜二つで今は総論としてそんなところしか思いつかないというのが誰でも思うことだ。
しかし、この加藤寛氏はかっての国鉄民営化に関しては功があったかも知れないが、その後のバブル経済に関しては「バブル潰し」に荷担した言動をしていた。
後に、自身は「バブル潰し」には反対していたと「嘘」を言っているのが白々しいものだ。
「バブル潰し」反対だったのは竹村健一氏のみだったことは、当時を知るものとしては記憶に新しいものではないだろうか。
早く言えば国鉄民営化で終わってしまった経済学者で、その後はその時の雰囲気で言動をすると言う人物だろう。」
日経新聞の様にバブル経済のハードランディングを主張し、その後中国景気に中国進出を勧め、今やTPPなどに前のめりになっている。
バブル経済のハードランディングは今や誤りであったし、中国への工場進出は中国バブル崩壊で危ういものになっている。それだけでなく賃金の高騰と工場労働者が集らず、それでいて撤退も出来ない。
撤退しようとすればどこからともなく高額な訴訟を起こされて(民事訴訟を起こされると出国出来ない)身ぐるみ剥がされると言うことが言われている。
日本の新聞というのは、こういう風に何かの目的を持ってバブル時代から国民の世論を誘導しているものだと言うことが分かる。
やはり西村幸祐 (著) 「『反日』の構造」を読むまでもなく、マトリックスとしての日本というのがよく分かるものである。





by 吉永隆山
1590年・小説「水の城」「のぼ…